人生において「いかに責任を捨てるか」が意外と重要かもしれないと気づいた20代前半

私がこうやって暑い夏の夜にパタパタとパソコンのキーを叩いているあいだも、あなたがモニターの前で足を組みワインでもすすって鼻くそをほじっているあいだも、時計の針は刻まれていきます。私たちは時間を止められません。

人生は時間で構成されていますから、できるだけ、自分の人生の時間は自分の好きなようにつかいたいものです。しかし、それを阻むものがあります。それが「責任」です。

「責任」が僕らを飛べなくさせる

私達が、人生という時間を消費して自由に飛び続けることのできるトリだとしたら、責任はその首にぶら下がるおもりだと、私は思っています。責任があることによって、することができないこと、やりたくもないのにしなければならないことができてしまうのではないのでしょうか。やりたくないことのために、「責任」のために、時間を消費せざる負えなくなるのではないでしょうか。私にはそれが我慢出来ません。

責任はいつのまにか私たちにかかってきています。重いけど、気づくのにはなかなか難しいです。責任を果たすために必死になっている間は、それだけに夢中になって周りが見えなくなってしまいます。第三者の視点で、自分を客観視しないと、自分の首におもりがぶら下がっていることには気づくことはできません。

さらに厄介なのは、私たちは、自分に降り掛かってもいない責任を自分のものだと勘違いして、それに対応しようと時間や労力や神経をつぎこもうとしてしまうことがあるということです。例えば、私の肉体は私のものですが、私にはこの肉体を守る責任などありません。しかし、どこか悪いところがあると必死に守ろうとしてしまいます。「なんかの病気かな?」と心配になり、神経をすり減らします。実はこの状態は、主観しか見えてない状態です。この状態の私に、客観視の眼を与えてみましょう。すると、ある疑いが生まれます。

「なんでそこまで必死になって自分の体を守ろうとするの?」

いやいやいや、それは自分の体だから当たり前でしょ!親にもらった体、大事にしなきゃダメでしょうよ!しかも不安だし!と、多くの人は考えます。私もそういった考えから、自分の体を守るために、体の調子が悪ければ、その症状についてググったりして情報を調べます。しかし、この考え方は言ってみればステレオタイプ的です。

それはもちろん、自分の体を守るのは本能的なものが関係するということは大いにあるとは思いますが、自分の体を守る責任は自分にある、と勝手に思い込んでいる可能性だってあるのです。

その責任は本当に自分がもつべきなのかどうかを合理的に考える。

体を守るという例は、極論チックだったかもしれませんが、言いたいことはただ、「その責任、本当にあんたがとらなくちゃいけないわけ?」ということです。私達が住むのは、ストレス社会と呼ばれて久しい日本です。そんななかで、あなたは目の前の大きな荷物を背負おうとしている。そこに対して私は、「本当にあんたの荷物かい?」と、声をかけてあげたいのです。が、そんなことはかないませんし、私も暇ではございません。

ですから、あなた自身が、そして私自身が、自らが背負う責任について真剣に問わなければならないのです。自分を相対化して、疑わなければなりません。本当に自分がしなければならない仕事はなんだろうか。自分でなければ背負えないものとはなんだろうか。何を捨てて、何を持って行こうか。まさに、責任は人生における重みであり、その重さにはそれぞれの意味があるのです。