いちいち自分や他人を不自由にするものに構ってられるかってんだ

生きているといろいろなしがらみがあると思うが、俺はそんなしがらみにいちいちとらわれていることはやめた。
かまわないことにしたんだ。しがらみは実は多くの場合自分のなかにある。
人に嫌われたくないとか、馬鹿にされたくないとか、もっと直接的に言えば、すれ違ったイケイケな感じのやつに変な風にバカにされたくないというか。前から歩いているやつに絡まれたら怖いじゃん。だから自分はそんな絡まれるほど価値が低い人間じゃないんです!と釈明するように一生懸命かっこつけようと魅力的に振舞おうとしてしまうってことがあるんだよ。
でもそんなの実は自分の独り相撲だったりする。もちろん変に絡んでくるゴミみたいな人間は一定数この世の中にいるが、大多数の人は他人を陥れて楽しむほど暇していない。もっと楽しいこと、重要なことに目を向けている。
だからもっとも醜いのは、人にどう値踏みされるかを気にしながら必死に自分のアイデンティティを確保しようとしていることなんだよ。構ってちゃいけない。くだらないことに構っていると人生に余裕がなくなって、最も醜くつまらない人間になってしまう。
これからのスローガンは「構わない」だ。馬鹿にされたって構わない。自分のレベルの低さを全国に露呈しても別に構わない。飯が食えてりゃそれでいい。揉め事だって構わない。自分の意見や主張を心の中だけでバチバチに燃やしながら表面では黙って見世物用の微妙な笑顔を作ってるよりは、人ともめたほうがずいぶんも心地よい。自分も相手も。

自分なんて存在しないのではないのか!?

最近は意味を捨てることに専念してますね。どんどん意味は捨てていくんですよ。もちろん生きてる意味だってないし、私がこの文章を書いている意味もない。働く意味もないし、飯を食う意味もない。ただ、飯を食うこと、音楽を聴くこと、酒を飲むこと、歌うこと、騒ぐこと、うんこすることは楽しいっていうだけです。その楽しさのためなら別にちょっとぐらい働いてもいいし、勉強してもいいんです。かといってそれらに意味は全くないわけです。
私は、自分自身の存在に意味を感じません。そもそも、自分って言うのは人間が作り出した概念であって、それが実在するかどうかは分かりません。確かに、我思う故に我ありってデカルトかなんかが言いまして、それはそうだとは思いますが、それはなにかを想った瞬間に『我』が出現しただけであり、自分が常に存在していると考えられる根拠にはならないと思うんです。

身体もなにもかもすべて自然に任せるのよ

内田樹先生が著書で言っていた。

言葉とか概念は先にあるけれど、その身体感覚がない状態がある。それを埋めていく作業が、創造的なうんぬん。あまり覚えてないけれど、重要なことである。
「怒髪天を衝く」という言葉は知っていて、意味はわかる。でも、怒った時に、髪が天をついてしまうほどの感覚。これは実際に感じてみないとわからない。人はその身体感覚をずっと探し求める。意味だけ、コンテンツだけ、中身だけぽっかり抜けた容器がこの場合言葉だからだ。
私はさきほどなんとなく、ここのところ目標にしていた「自然に任せる」という状態の身体感覚を得ることができたように思う。自分は、本当に心の底から努力しない。おのずからなるだろうと、信じ込んで任せる。
自分でどうにかしようとしない。自然にどうにかしてもらう。だって、私が生まれたのは私が生まれようと思ったからじゃない。全部自然の責任なのだ。